第563号(2000年2月15日号)


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戻税と特免の統合案浮上

■戻税の期限切れ迫る

 観光戻税の利用率低下、沖縄型特定免税店の売上不振で両制度を統合すべきだという案が県内業界を中心に浮上、沖縄税関も「制度を生かすためにできることには協力したい」と前向きだ。

 観光戻税制度はウイスキー・ブランデー、香水、さんご・べっこう製品、万年筆、ライターなど八品目を対象に関税、消費税など全ての税が免税となる制度で、沖縄を離れる観光客や出域する県民にも適用されている。復帰時に導入され、五年ごとに期限が延長されてきたが、次の期限が平成十四年五月十四日に切れる。しかし利用率の低下から、次回の延長は認められない恐れがでてきた。

■利用率低下、売上不振で危機感

 観光戻税実績の推移(グラフ参照)をみると、昭和四十七年五月に制度がはじまり、一回目のピークは昭和五十年で、販売額九十億五千二百万円、戻税額二十四億六千万円となった。この年は、沖縄国際海洋博覧会が行われた年である。

 いったんは減少したものの観光客の増加に伴い販売額及び戻税額も同様に推移し、二回目のピークである昭和六十二年には、販売額九十四億九千五百万円、戻税額二十一億二千万円となった。この年は海邦国体が行われた年である。

 その後、観光客数は年々増加する一方、観光戻税実績は減少し、平成に入ってからは酒税法改正など社会情勢や経済の変化により、昨年には、販売額三億五千二百万円、戻税額三千七百万円となり、昭和六十二年と比べ、販売額で九六・三%の減少、戻税額で九八・三%の減少となり、昭和四十七年の観光戻税制度が始まって以来、過去最低を記録した。

 昨年の観光戻税実績の推移をみると、一月から五月まで販売額及び戻税額ともほぼ同様に推移していたものの、六月には減少し、以降ややもちなおしの傾向はあるものの低迷を続けている。これは同制度が那覇空港内で多く利用されているが、五月末の那覇空港国内線ビルの移転に伴う影響と考えられる。

■特免は売上も予想下回る

 一方、沖縄型特定免税店制度は観光戻税の対象品目以外に適用され、関税が免除になる制度だ。戻税制度が県内全域の土産品店などに適用されているのと異なり、那覇空港の出発ロビー内に地域が指定されている。

 利用客は売店で関税を差し引いた価格で品物を購入し、店外にある税関のカウンターで確認を受けなければならない。この際、売店側は確認書に基づいて関税の支払免除を受けることになるため、もし、購入者が確認をしなかった場合、関税を支払う必要がでてくるなど、煩雑な運用となっている。

 特免売店の売上は開業一ヶ月で目標を大幅に下回ったものとなっているが、品揃の充実が求められており、また、場所についても「出発直前でショッピングの時間がないのではないか」といわれる。

 このように観光戻税の売上が激減し、特免の売上もスタートしたばかりではあるが予想以上に厳しい内容になったことから、戻税と特免の統合によって両制度の良い面を活かせないかという案が浮上してきた。

 戻税は県内全域が対象で、全ての税が免除されるという強力な特典があるが、品目が限られている。特免は空港が地域指定され、対象品目は戻税対象品目以外となっているが、免税となるのは関税だけで消費税などは免税とならない。

■消費税拡大に備え、統合すれば最強の特典

 単純に両制度の有利な面を取り入れると「輸入される全品目対象、県内全域対象、全ての税免除」という最強の特典が得られる。

 さらに戻税が有利な点は今後値上げが十分予想される消費税が免除となっている点で、現行の五%の消費税がヨーロッパ並みに十数%まで拡大されると極めて魅力的な制度としてよみがえる可能性が高い。財政再建が主題となってくれば消費税の再値上げは避けられないと見られる。

 観光戻税制度は酒税の引き下げによって大きな痛手を受け、魅力が半減した。利用率は昨年は一年間を通じて一%以下であった。戻税を利用する観光客も少なく、戻税承認店の多くも「手続きにコストをかけるより、値引して販売する方が有利」と制度そのものが形骸化。県内の戻税承認店の大半が手続をやめてしまい、空港内の戻税売店だけが主として戻税制度を扱っているに過ぎなくなってしまった。

 戻税制度は酒税などが小さくなり、次ぎに予想される消費税の拡大の狭間にあって息切れしているが、復活するチャンスはある。制度そのものは生かしておくべきだが、売上の減少によって再延長の原動力となる業界にも関心が薄れてしまっている。はたして、戻税と特免の統合案はまとまるだろうか。「再延長の事務的手続は平成十三年中には完了していなければ、平成十四年の再延長には間に合わない」と沖縄税関はいう。

 両制度の有利な点を組み合わせて魅力的な統合案とするよう、地元から声を上げることが大切である。


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閉鎖前に浄化着手、施設はリースし活用

 カリフォルニアでは二十五カ所の基地が一挙に閉鎖された。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの付け根あたりも返還基地で、サンフランシスコの市内観光をしたことのある読者なら、ゴールデンゲートブリッジへ向かう途中の緑深い公園を通った事があるであろう。この一帯が返還基地跡地である。われわれはサンフランシスコの南側にあるハンターポイント海軍造船所跡とオークランドのアラミダ海軍航空隊基地跡がどのように使われようとしているか、見た。現状を再開発公社のハンターポイントオフィスのケネディーさんが主に説明した。

■開発しながらインフラ整える

 ハンターポイントは一八六六年から海軍基地としてドライドック一基でスタート。造船所として知られる(写真はハンターポイントのバースの一部)。その後、一九〇〇年代前半に二つのドライドックを追加。一九四〇年代には造船所の規模がさらに拡大され最盛期には九百八十六エーカーまで拡大した。大型クレーンを導入し、バースを埋め立て戦艦の修理を行った。

 一九七二年に造船所が閉鎖になり、七〇年代後半から八〇年代初頭にかけて海軍が基地を手放し、その後軍隊はいない。軍の予算が縮小され、管理はサンフランシスコ市に移った。

 土地は汚染されており、海軍は浄化義務を負った。海軍は資産を手放す発表と同時に基地を三区画に分け浄化を開始した。一千八百万ドルを投じて海軍が浄化作業をしている。

 土地は区画に分け、民間のデベロッパーを入れて計画が立てられている。住宅地、R&D用地、工場用地、教育文化施設、緑地などが整備される。デベロッパーは民間の資格審査委員会で選んだ。道路、電力、ガス、上下水道などインフラを整備する必要があるので、財政力のあるデベロッパーが選ばれた。

 ハンターポイントの施設は一九四〇年以前にできたものばかりで、下水のパイプが腐っているものもある。市が全てのインフラを直していくとなると資金がかかり、一手に引き受けるわけには行かなかった。開発しながらインフラを整えることになった。ある程度の成果が五年後には見られるようになると思う。

 土地は現在でも海軍所有で計画完了にはあと二十年かかると見込んでいる。

 このような時間がかかるのは市の規制もあるし、コミュニティーの意見を聞いたり、地域にあった開発を進めるからだ。コミュニティーの住民が参加するタウンミーティングも開催した。そこには再開発当局、デベロッパー、市民が参加する。二〇〇〇年二月五日に予定されているタウンミーティングでデベロッパーが計画を発表する予定だ。これは最初の計画から変更があるために市民に説明するためのものだ。また、住民の声で環境評価が一度拒否されている。これのやり直しの発表もある。

 開発時間を縮めるために市の規制緩和が適用されている。建物の高さ制限、容積率、土地の区分けなどだ。ビルの外観や高さにルールがあり、計画を立てるのには長期に渡って緻密なプロセスが要求される。

 すでにある施設の大半は市の基準にあわないもので、クリアできないのが現状だ。修理も大変で使えないものが多い。それでも大規模な施設は撤去するのが大変で、修理して使う方が安上がりになるものもある。映画会社がスタジオに使いたいというものもある。

 計画は市当局の都合でなく、この周辺地域の経済的な目的に沿うものでなければならない。交通量などは規制に従わなければならないが、この周辺は僻地なので規制は緩いと思う。

 七〇年代に出来た建物はユティリティーが近代的でビルの骨格は素晴らしいものがあり、出来ればそのまま活用したい。七九年の地震でも影響がなかったほどだ。市の規制で厳しいのはバリアフリーの建物としなければならないことだが、七〇年代の建物はバリアフリーとはなっていない。

■住民の声を結集する

 デラウェア女史はハンターポイントの跡利用審議会の委員で、次のようなプロセスで跡利用計画がまとめられたと述べた。

 基地跡利用の審議会委員は市長が任命し、市民の声を再開発に効率的に反映できるメンバーが厳選されている。なるべく多くの人たちの意見を代表し、経済的利害だけでなく計画プロセスの分かる人もメンバーになる。全体的な話が分かる人も必要で、市長へのアクセスも必要だ。計画をまとめるのに二年を要したが、時間がかかったのはなるべく多くの人たちの意見を反映させるためだった。

 ここで言うコミュニティーとは計画者、政治家、地域住民、基地で勤める人たちだ。二十年前に閉鎖されたが、市の資産として放置しておくわけにはいかず、施設の一部は民間が使っている。従業員の中にはすでに退職した人もいるが、利害関係者である。

 審議会は二十九人構成で公聴会も開く。私は都市計画分野の声を代表している。金融、環境の専門家もいる。

 ハンターポイントの経済評価は当初は不動産不況もあってあまり価値はないと見られた。いまはその状況が変化し、シリコンバレーの拡大やバイオ産業の発展で価値は高まっている。広さは五百五十エーカー(普天間基地のおよそ半分)あり、市の中に市ができる感じだ。いままで海軍のものだったから建築基準の適用外だった。しかし、最低限の補強を条件に十年間は使いながら改修できることになっている。

 この基地内に何があるのかは海軍の情報開示よりも自分で調べた。海軍は協力的ではあったがプッシュしないと何もしなかった。ここは立入禁止になっているが、機密があるからではなく施設が老朽化して危険だからだ。

 われわれの計画に基づいてデベロッパーが計画書を作り、計画は委員会に提出される。このエリアには三百人のアーティストがすでに仕事場を持っており、再開発後もそのまま残って欲しいと考えている。

 米軍基地の多くが国有地であり、国有地が地元に払い下げられ、使える建物があればそのまま使っていた。それでも閉鎖後、再利用までに二十年以上かかっているのは「地域住民の声をまとめる」というプロセスに丁寧に時間をかけているからであった。開発資金に民間投資を見込み、市や州が丸抱えで再開発するというわけでもなかった。このような事情も開発スピードに影響しているものと思 われる。また、単に放置してあった時間があることも確かだ。

 沖縄基地の場合、ほとんどが私有地であり、大勢の地主がいて跡利用方法について合意が得にくいため時間がかかると見られている。しかも跡利用計画のための費用は、基金からの助成も一部あるが、市町村が単独で用意しなければならないという制約がある。それでも二十年、三十年で再利用されている現状を見ると、かえって米国より早いか同程度の時間と見ることも可能だ。

 次ぎに訪れたオークランドのアラミダ基地は司令官の積極性によって跡利用が極めてスムースに進められた例として知られる。(渡久地明、続く)


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12年ぶりにジュリ馬復活

 那覇市辻町のジュリ馬行列(写真は1983年頃)が十二年ぶりに復活、二月二十七日に辻町一帯で華やかな琉球王朝絵巻を繰り広げる。一月二十六日、まつりを主催する(財)辻新思会(理事長島正雄氏)が発表した。

 説明をした実行委員長の上江洲安明氏によるとこのまつりは二十日正月(旧暦一月二十日)の民俗・信仰の恒例行事。二月二十四日は豊年と商売繁盛の祈願、二月二十七日にはお披露目行列がある。

 十二年前までジュリ馬行列として行われていたが予算がないため中断、今回の復活となった。当時は那覇市から百九十万円の補助があったが市議会、婦人団体、学校関係などから「売春を助長するもの」として反対の声が挙がり、那覇市もこの声を重く見て、予算を打ち切っていた。

 新思会では祭りを見直した結果、辻町は三百五十年前に公設された。当時は薩摩の侵攻後、海外貿易も中国のみに制限されたため、首里王府の財政が窮迫し、課税も重く、住民は負担に耐えられず苦しんでいた。その中で中国の冊封使や薩摩の奉行役人、貿易商人を接待するため辻町を設立、王女が側女を引き連れて開祖になったといい伝えられている。当時の首里王府の税金二分の一、明治政府の税金六分の一を納税していた。辻町の女性達は歌舞音曲、料理、躾、言葉づかいなどの教養を身に付けていたという。

 行事は二月二十四日(旧暦一月二十日)に豊年祈願祭、二月二十七日(日曜日・旧暦一月二十三日)午後二時から午後五時二十分まで辻町一丁目及び二丁目で「二十日正月お披露目行列」(ジュリ馬スネー)を行う。行列は銅鑼と爆竹が響きわたるのを合図にはじまり、鐘うち、ミルクムナリ、獅子、ミルク、大ムイメー、下女、王女、側女、四つだけ群舞、マミドーマ群舞、イニシリブシ、ジュリ馬・三味線、祭り太鼓の順で行列、隊列の長さは二百七十メートルになる。ほかに町内三か所の舞台で演舞を行う。

 ハイライトはジュリ馬行列で、紙で作った馬の首を両手に持ち、紫の手綱を手に「ゆい・ゆい・ゆい」と早いテンポではやし、踊りながら行列する。踊り手は紅型などの衣装を着た女性たちばかり。参加者は全員女性で七百人、男性は獅子を操る人などわずかに三人。今回の予算は大口寄付などで約一千万円。将来、恒例行事に育てていく方針。今年は世紀末のため歴史を正視しようと開催に踏み切った。


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