見つけた! 沖縄観光成長の法則

(「観光とけいざい」第657号04年6月1日。WEB公開04年6月20日)

沖縄観光速報社・渡久地 明

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見つけた、沖縄観光成長の法則

 観光産業のニュース専門紙・沖縄観光速報は73年12月1日に渡久地政夫が創刊し、03年12月をもって満30年を迎えた。この間の発行回数は648回となり、日本で唯一、沖縄の観光に絞ったニュースをきめ細かく、的確に提供してきた。30年分の記事を子細に見直し、さまざまなデータと照らし合わせてみると、沖縄観光の成長と低迷には明快な原理原則があることが分かった。原理の前に、成長の最大の要因となったのは、観光業界の先輩方だったということを特筆しておかねばならない。いまから振り返ればまるで経済学の理論のように沖縄観光は伸びたが、業界人のそのときどきの頑張りがこのような成長をもたらしたのである。沖縄観光成長の法則を初めて明かす。(本稿は「沖縄観光速報」30周年記念特集、第657号、04年6月1日に加筆したものです)

低迷と成長を繰り返し、伸びた沖縄観光

■供給が次の需要を呼んだ

 観光は沖縄振興計画で産業部門のトップに記述され、リーディング産業となった。われわれは長期展望を持つべきである。その基礎となるデータを提示し、業界の役に立てたいと沖縄観光の30年を振り返る特集を組んだ。特集は過去30年分の「沖縄観光速報」記事の主要見出しのリストであり、時々刻々、観光業界で誰が何をしてきたかの記録である。若い人たちにとって先輩方のノウハウやガッツを受け継ぐきっかけになればと思う。

 成長と低迷を繰り返したこの30年間の時代区分をしている作業中、成長と低迷には周期とその根拠があることに気が付いた。最初のグラフは復帰後の観光客数と観光収入の推移である。観光客数の増減に関して7つの段階があったと考えた。指標は年間観光客数の伸び率を用いた。この区分は「沖縄観光速報」独自のものである。おぼろげながら、沖縄観光は70年代後半、80年代後半、90年代後半にそれぞれ成長期を迎えている。このまま行けば00年代は05年頃から成長する予定であるが、沖縄への入込客数は02年から好調を持続している。これは復帰が72年であり、その後、政府が10年ごとの振興開発計画をつくったことと関連している。

 02年の新振計スタートで、00年代に入ってからは、05年頃から本格的に供給体制が整ってくる予定であった。しかし、03年のモノレール開業に向けたビジネスホテル開業ラッシュがあったため成長のスタートが早まったのである。また、インターネットの普及で県民が民宿などで観光産業に参入しやすくなり、小規模な宿泊施設が激増したという背景もある。

 時代区分を詳しく見よう。

10年周期があった

《第1期》 1972年>>>>1975年、伸び率38.49%

 第1期は復帰の72年から海洋博が開催された75年である。復帰後の沖縄を見ようと観光客は増えたが、沖縄へ行くなら海洋博を目当てにしようという時期でもある。この海洋博開催こそが沖縄観光を成長させる本当の起爆剤となったのだ。この間の観光客数の伸びは空前絶後で、伸び率は38.5%と算出される。

 沖縄県は1972年5月15日にスタートした。復帰した年の観光客数はわずかに44万人だった。はじめは墓参団が中心だった。しかも、観光客は73、74年と勢いよく伸びる。デビューした沖縄を国民は見たかった。政府は沖縄国際海洋博覧会を準備。「海、その望ましい未来」をテーマに1975年の開催が決まっており、本部町の会場には各国のパビリオンが建設され、政府は未来の海上都市、アクアポリスを出展した。石川市と名護を結ぶ沖縄自動車道や、周辺の道路などインフラが整備され、那覇市内や会場の本部町周辺には宿泊施設が続々建設された。当時の本紙記事は海洋博前夜の宿泊施設ラッシュを最大限に詳しく伝えている。同時に、サービスの品質が悪ければそっぽを向かれる危惧があることなど業界の表情も時々刻々伝えている。海洋博が開催された75年の観光客数は156万人となり、大成功をおさめた。県内宿泊業界は客室を充分に供給しきった。ところが、目玉がなくなると過剰な宿泊施設はガラ空きの状態となる。業界人の多くが、この落ち込みを予想することができなかった。76年の観光客数は84万人と半減して、大慌てになる。いま考えると、イベントで集中的に集客したら、翌年は副作用も大きくなると想像できるが、当時はそうではなかった。次の年は156万人からスタートすると考えていた。海洋博前年の水準をクリアしたのだから上出来に見えるが、稼働率が前年の半分では倒産も出る。しかし、これを機に各社が必死のキャンペーンを張り、猛然と伸びることになる。創刊当時、観光業界には全く情報がなかった。現代の観光産業とはなんだろうという知識もなかった。このため、観光速報という媒体が業界の情報を整理することに役に立った。観光客数は伸びたり低迷したりしてきたが、そのリズムには明快な理由や法則がある。本紙30年分の記事を読み解けば、次の展開が大変明るいと予想することができる。

《第2期》 1976年>>>>1979年、伸び率25.37%

 第2期は海洋博後の落ち込みがあった76年からキャンペーンで猛然と伸びた79年までである。海洋博で整えられた設備をフル稼働させることによって近代的な観光産業が芽生えるのだ。この間の伸び率は25.4%である。

 海洋博後の落ち込みを予想できなかった業界は危機突破大会を開く。客室料金はすでに3割引で戦国時代ある。同時に航空運賃の割引を求める声も高まる。156万人を受け入れた設備が整っており、この設備を半分も使わない状態を放置するわけには行かない。そのためには値引きで需要を喚起したり、キャンペーンを張って沖縄への注目を集める必要がある。本来、沖縄は日本唯一の亜熱帯地域であり、リゾートには向いているのだった。76年初頭から旅行社各社が沖縄の送客目標を設定し、全日空は久米島を売り出した。77年には沖縄の海のキャンペーンを日航が展開し、全国のマスコミを招待するなど各社が攻勢に出た。客室の供給体制は整っており、キャンペーンによって活性化した旺盛な需要を十分吸収したのである。この結果、 79年まで沖縄観光は毎年25%成長で伸び、180万人にまで到達する。海洋博の供給体制を上回る入込であり、この成長を見て再びホテル建設ラッシュが起こる。航空会社は増便である。修学旅行ブームの前兆が表れ、すでに新婚旅行の行き先ナンバー1は沖縄であり、それまでの宮崎が転落。北海道でも沖縄にお客を取られたという新聞記事が出るほど破竹の勢いで伸びる。ところが、80年代に入りそれまでの伸びにブレーキがかかり、長く停滞する。しかし、87年から再び息を吹き返す。

《第3期》 1980年>>>>1986年、伸び率2.06%

 第3期は伸びにブレーキがかかる80年から低い伸び率が長期化した86年までである。この間の伸び率は2.1%であった。沖縄県は82年から始まる第二次沖縄振興開発計画で、91年の観光客数を300万人にするという数値目標を発表、大型ホテルが20軒は必要との誘導を行った。この政策も決定的に重要であった。これに合わせて80年代中盤から万座ビーチを始め大型リゾートが続々できる。

 80年代に入ってからの低迷はいくつかの要因が重なっており、明快に説明できる。まず、それまでの猛烈な伸びから、84年までにホテル開業ラッシュが落ち着いている。供給増は84年頃まで緩やかなものとなり、観光客もそれに応じた伸びしかできなかった。第二に水不足で制限給水の状況が長期(81年から1年)にわたっていた。第三に日航ジャンボ機の墜落事故(85年)である。これ以外にも細かな問題はいくつも提起されていた(当時の座談会参照)。さまざまな課題が指摘され何が原因で低迷しているのか、よく分からなかった。いまは、米同時テロでの風評被害、SARSの影響の出方などを知っている。冷静に振り返ればこれらの事件や事故の影響もあった。しかし、より重要なのは客室や水道水などの供給不足の問題である。事件・事故の影響もキャンペーンなどの工夫と努力で解決できる。これに対して沖縄県は第二次振計で91年までに観光客数を300万人に拡大するとの方針を打ち出し、それに備えダム建設などインフラの整備が政策としてすすめられた。民間でも長期低迷のなか、大型リゾート開発が次々計画され、着手、86年頃から再び続々開業していく。そして、この時に拡大した供給体制が87年以降の大躍進として大きく花開くことになる。

《第4期》 1987年>>>>1990年、伸び率9.29%

 第4期は再び供給が整い、3度目の成長を遂げる87年から90年である。伸び率は9.3%を達成した。10年前に県が目標に掲げた観光客300万人は91年に見事に達成された。

 86年までに拡大した客室を活用して、海洋博後に次ぐ大躍進が87年から再び始まった。バブル形成の時期であり、景気がいいから観光も伸びるのだと思われた。しかし、実際には充分整った客室の供給体制があり、これをフルに活用するために旅行社、航空会社が一丸となって努力したのである。この沖縄の大躍進を横目にバブルの影響もあって、大型リゾートの開発計画ラッシュが再び起こる。沖縄県は01年までの観光客数を500〜600万人と設定し、トロピカルリゾート構想や第3次沖縄振興開発計画に盛り込む。

《第5期》 1991年>>>>1994年、伸び率1.70%

 第5期は湾岸戦争で幕開けした91年から94年の停滞期である。期間中の伸び率は1.7%である。県は第三次沖縄振興開発計画でも観光を伸ばし、01年の観光客数を500から600万人にすると目標を打ち出した。そのころバブル絶頂期であり、200を越える開発計画がリストアップされ、開発「計画」ラッシュであった。しかし、バブル崩壊、続くデフレ不況で次々に計画は頓挫する。それでも94年までにロワジール、リザン、アリビラなど大型ホテルが続々デビューする。

 好調な伸びは91年も続くと予想された。しかし、フタを開けると前年比微増である。この原因はさまざまあるが、本紙は湾岸戦争の影響であると当時から見ていた。しかし、この解釈はいまでも公式には受け入れられていない。同時に沖縄の暴力団抗争は高校生の死者を出すという、暗いニュースになった。91年まで伸びた客室の供給にも一段落が着いている。バブル時の計画が実行に移される時期で、客室は93年頃から急速に拡大する。ところが、観光客数は増えない。このころ、海外旅行が絶好調で運輸省は日本人の海外旅行を10年で倍の1000万人にする計画を立てたが、4年後の90年に達成。グアムやハワイが沖縄と競合し、海外リゾートの方が沖縄よりも割安感が出た。このような中で93年の開業ラッシュである。観光客は新しいホテルに分散、この年の県内ホテルの稼働率は年間で前年を6%ポイントも下回った。観光は3K産業(観光、基地、公共工事)と呼ばれ、県内金融機関も慎重になった。空前の海外ブームと稼働率が激減する業界の悲鳴を聞きつけて、「朝日」や「日経」などの全国紙も「沖縄観光ブームは去った」と書いた。しかし、この苦境を業界は乗り切った。沖縄県に陳情し、初めて3億円の誘客宣伝費を94年補正予算で取りつけ、キャンペーンに投じた。沖縄県副知事が東京で航空会社、大手旅行社トップに協力を要請した。本紙も打って出るべきであると論じていた。

《第6期》 1995年>>>>1999年、伸び率8.35%

 第6期は95年から99年までである。デフレ下、4度目の急成長、伸び率は8.4%である。この時も供給体制が整ってからの急成長となった。沖縄観光にはバブル後の右肩下がりの経済不振が当てはまらないことが分かる。日本の旅行需要が年間3億5,000万人の規模であり、わずか500万人程度の沖縄観光には景気の影響は少ないことが明らかになった。

 95年の伸びは前年比3.1%増とわずかな伸びではあったが、前年のマイナス成長に明らかに歯止めをかけた。99年までの平均伸び率は8%以上となり、4度目の高成長を観光業界は経験することになる。この時も充分に供給が整った客室を旅行社や航空会社が存分に販売して、すべてを受け入れたのである。デフレ下の大きな伸びであり、なぜ伸びているのか日本中から注目を集めることになる。結局、右肩下がりの経済見通しと景気縮小局面での行財政改革は政策の失敗なのだ。航空会社の運賃政策も功を奏したといえよう。格安航空券を国民は比較的自由に手に入れられるようになった。90年代半ば、運輸省は次々に航空政策を打ち出して、運賃(幅運賃や届け出制)や路線開設(ダブルトリプル参入基準の緩和や廃止)を自由化した。沖縄の露出度も拡大していた。少女暴行事件が発端となったが、大田知事が次々に政府に沖縄の要望を突きつけると、日米同盟の要としての沖縄問題に本気で取り組む。ついに、普天間基地の返還、2000年サミットが決まり、沖縄に注目が集まる。このころインターネットが本格的に普及し始め、沖縄の観光産業は自ら情報発信する手段を手に入れることになる。その効果はいま顕著である。

《第7期》 2000年>>>>2004年、伸び率4.39%

 第7期はサミットが開催された00年から現在である。00年のマイナス成長、01年のテロによる激減と02年のV字形回復以降の回復期を分けるべきかも知れないが、いまは分けないでおく。04年は目標の525万人を達成するのがほぼ確実となり(5月時点での予想)、この間の伸び率は4.4%となる見込みだ。

 2000年サミットの年、観光客数は前年割れとなる。サミットが開催された7月の観光客が激減したためと理解されているが、本紙は 年4月からの航空運賃の自由化による実質的な値上げが主要因と見る。その証拠に値上げとなった4月以降の入域客数が低迷するのである。また、この年は8月に3つの台風が来襲したのも大きい。サミットに向けて大型のリゾート開発も一段落した。反面、モノレール開通を見越した駅前ホテルなどが静かに増えていた。91年は3次振計最終年度であり、沖縄県は500万人の目標達成を目前に、911テロで再び前年割れとなる。前年割れは業界にとって深刻な影響となる。名門東急ホテルがサミット直後、閉鎖に追い込まれ、オーシャンビューも閉鎖した。テロ後はV字形の回復を見せるが、キャンペーンと低価格化による回復である。しかし、ここにきて95年から始まったインターネットの普及が観光産業全体に影響を及ぼすようになる。新設のビジネスホテルはネットで7割稼働するところが現れ、既存大手ホテルの中にもネットで3割の客室を販売するところが出てきた。民宿が増え、この集客にもネットが存分に活用されている。情報の流通の風通しがよくなり、航空券や客室の販売形態が大きく変化した。02年夏にはオーバーブッキングが続出し、客室不足は明かとなった。沖縄県は新振計で2011年の観光客数を650万人と設定したが、2次振計、3次振計に比べて拡大幅は小さい。それでも数千室が不足することが分かっており、04年夏以降大型ホテルが毎年開業する見込みである。さらに、西海岸リゾートで敷地に余裕のある既存ホテルから続々増築の動きが出ている。これら供給体制が整えば、再び沖縄観光は成長期に入る。このサイクルを続けることができれば、2017年に1000万人が可能であると本紙は見通している。「2011年の目標を750万人にしておくべきだった」と沖縄のパイオニアといわれるリゾートの支配人が、最近、記者に述べた。もちろん業界は需要と供給の経済原理に基づいて700万人程度を達成すると思われる。ネットの普及による販売方法の変革は、沖縄の観光産業にとって大きなプラスである。これまで国民に幅広く伝えることが困難だった沖縄文化という強力な魅力を手軽に売り込むことができるからである。高齢化も追い風である。沖縄観光はこれからも年平均5%程度のスピードで伸びると見る。

振興開発計画が主導していた

 1期と2期はセットでほぼ10年である。以下、3期と4期の10年、5期と6期の10年がそれぞれセットである。ほぼ10年の周期があったことが見て取れる。第7期はこれから始まる8期とセットで最後の10年周期を形成するであろう。

 10年間隔で何が起こったのか。第1期から第7期のパターンはこうだ。つまり、海洋博という大きな目標によって宿泊施設を中心にさまざまな観光施設の供給体制が整備された。道路など観光産業にとっての基盤となる社会資本も整備されたのである。これによって海洋博そのものを成功させた。その後、落ち込むが、156万人を受け入れることができる供給体制があることが分かっている。これをフル稼働させるために、旅行社、航空会社が大がかりなキャンペーンを打ち、旺盛な需要を沖縄に振り向け、全部吸収したのだ。吸収しきったところで客室不足になり低迷するが、そのタイミングに合わせて沖縄振興開発計画が策定され、その中で観光産業の目標を指し示した。これに応じてさらに供給が充実、体制が整ったところで急成長、再び客室不足となり、ちょうどそれに合わせて次の振興開発計画が策定されたのである。沖縄観光は急成長をこの30年間で4度経験し、いま、5度目の急成長を迎えようとしている。

 二次振計、三次振計を通じた観光客数の成長目標値は平均5%であり、この間の現実の伸びは4.8%を達成、ほぼ目標通りとなったのである。振興開発計画の30年間を通じて目標を達成したのは観光産業だけであった。他の産業分野が県内向けの目標だったのに対し、観光産業は観光客そのものが全国を相手にしており、県内企業と共に航空や旅行社など全国の最先端を行く企業が目標達成に向けて参加したのである。

 さて、この年代区分ではこれまでのパターンでは第7期は低迷するはずであるが、かなり調子がよいのには原因がある。03年のモノレール開業に向けたビジネスホテルの充実がこの時期あったからだ。これにパターン通り05年以降、大型リゾートの供給体制が整ってくるから、もっと大きく成長する体制が整うのである。理論通りに展開するには06年頃から再びキャンペーンが必要になる。また、供給体制を急いで整える必要もある。これらが実現すれば、低迷の第7期は00年と01年だけになり、02年から急成長の第8期に入ったと、後に分類されるであろう。

 これらの時代区分とともに、「沖縄観光速報」30年間の紙面に現れた観光産業の事実を知れば、われわれは沖縄観光の長期展望を手に入れることができる。おそらく一次振計の海洋博、二次振計から現在の新振計までの観光客数の目標値の設定は決定的に重要な役割を果たし、観光産業界はすべてをクリアしてきたのだ。現在の計画が650万人と弱気の目標となったのは、那覇空港の沖合展開が間に合わないという問題があるからだ。しかし、旧運輸省は一本の滑走路の発着限界は「運用次第で公表値の年間16万回から22万回以上に増やせる」との試算をまとめていた。800から900万人以上の受入能力はあるのだ。

 激動した沖縄観光の30年間のタイムトラベルへようこそ。そして次の1,000万人を展望しよう。


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