連載 前川昌道・IT導入、成功と失敗の法則(141)


「沖縄のIT産業の隆盛を演出した」前川昌道さんを追悼する

渡久地明(沖縄観光速報社編集長)

 前川昌道さんが3月12日、亡くなった。77歳だった。本紙連載は04年5月から始まり、前回までに140回カウントしている。しかし、80年代にも連載してもらっていたことがあり、しっかり数えたら、寄稿は160回近くになる。

 1980年代前半、16ビットCPUのパソコンが売り出され、まだインターネットはなく、パソコン通信がはやったころだった。私は1982年に群馬大学の電子工学科を卒業して、沖縄観光速報社に入社。電気通信の動向について、面白いものが出たときには解説記事も書いた。

 インターネットのようなものができるということは当時の電気系の学生にとっては当たり前となっており、20年後の実用化を前提に通常の授業でも光通信理論や光ファイバーの作り方などは教わっていた。また、2000年頃には電話料金は10分の1以下に下がると予想されており、これらはだいたいその通りになっている。世界の電気通信技術者がそれらを実現させたわけだが、前川さんは東海大学で電気工学を勉強した工学部の先輩であり、まさに新たな技術を実現・普及させる企業のリーダーの一人だった。

 デジタル通信の担い手は、当時は電電公社と国際電電だった。当時の電電公社沖縄支社長が沖縄を高度情報通信のモデル地区にしたいと私のインタビューで述べ、たしか当時、観光局長だった仲里全輝さんに詳しく話したら、迅速な対応で西銘順治知事が予算をつけたのだった。これが沖縄で高度情報通信産業が歩き始めるきっかけになった。

 前川昌道さんはそのような時期に国際電電の沖縄支社長として赴任した。面白い人だとすぐに話題になり、私もインタビューを申し入れた。前川さんはまだ40代、私は20代だった。前川さんはさまざまなプロジェクトに関わり、海外経験も豊富なエリートだった。

 沖縄に赴任してすぐにKDDのビルに「世界のウチナーンチュに声援を送ろう」という懸垂幕を掲げ、琉球新報の世界のウチナーンチュシリーズの連載企画を支援。沖縄の国際電話の利用を飛躍的に拡大させることに成功した。西銘県政に世界のウチナーンチュ大会が始まったきっかけの一つはこれである。

 また、当時、パソコン通信の沖縄での普及に貢献した。KDD沖縄支社の1階スペースにパソコンをおいて、体験コーナーを設け、パソコン通信をやって見せた。いまから考えると、ホントに初歩的なデモンストレーションだったが、とにかく珍しかった。  また、泡盛をもっと国内や世界に売ろうとKDD泡盛「海の道」をつくった。泡盛はもっと高く売れると、初めて琉球ガラス製の容器を造り、ラベルにも月桃紙を使うなどして高級感のある製品に仕上げてヒット、その後の泡盛ブームをリードした。  沖縄支社長は3年くらいだったと思うが、だれもできなかったことにチャレンジして、沖縄の産業界に大きなインパクトを与えた。その後、KDDのニューヨーク支社長なども歴任した。

 定年後は、企業の顧問を務めるなどしていた。県内企業のマルチメディア関連の企画をリードしたこともあった。

 断続的に私は前川さんの企画を紙面で紹介するなどしていて、本紙の連載もこのような中で生まれた。

 前回までの連載の初回は第656号(2004年5月15日)であり、10年以上の長期に及ぶ連載となった。次第に内容は変化したが、自由に健筆を振るっていてもらいたかった。このような場を提供できたことはほんとうに光栄だった。

 日大の福井千鶴先生、ゼミの学生らと一緒に、若い頃に活躍した南米に行くのを毎年、楽しみにしていて、亡くなる直前まで本紙に旅行記を寄せてくれていた。福井先生の著書『南米日系人と多文化共生』(2010年5月15日、沖縄観光速報社刊)はこのような長期的な取材に基づいて書かれた労作である。前川さんが旅行中に多くの写真を撮っていて、書籍の中で最大限に活用されている。お二人で書いた本と言ってよいと思う。

 最後は自宅のある静岡の温泉につかっていて亡くなった。病院に運ばれてから心臓は動いたが、多臓器不全で息を引き取った。ご冥福を祈ります。合掌。(本紙・渡久地明)

(「観光とけいざい」第918号、2016年4月1日号)


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