沖縄観光史を見直す 戦前の沖縄観光について


「観光とけいざい」第640(03年8月15日)より

宮里 一夫



1、 沖縄観光協会の発足

 「沖縄観光は戦後の戦跡参拝団から始まった」。

 今日、観光関係者でもそのように理解している。しかし、それは正しい認識ではない。観光に対する取り組みは、実は戦前から始まっていたのである。ただ、「観光」という概念が県民に浸透しない内に、太平洋戦争に突入したことや資料の欠如などによって、これまで解明がなされなかったからである。

 沖縄県が観光に着目したのは、昭和十一年(一九三六)八月、沖縄観光協会(会長、金城那覇市長)が発足してからである。その時の創立趣意書にはこうある。

 「空にはダグラス機が就航しました。福岡、台湾はむろん東京、大阪、朝鮮、満州からも沖縄に一と飛びに行ける便利な時代となりました。海には大阪商船の新造船がいよいよ来春から配船せられ大阪那覇間の航程が三日に短縮されようとしています。それに大連(中国)那覇線が開航したので那覇港はいよいよ重きを加えました。(中略)空に飛行機、海に優秀船、陸に無線電話があれば沖縄ほど旅行の好適地 は他になかろうと思われます。それに県内は到るところ風光が明媚で郷土の語る史蹟は観光客を満足させるに充分であります」

 この時期に協会が設立された背景だが、四年後の昭和十五年には「幻のオリンピック」となった東京オリンピックが開催されることになっており、それに向けての布石もあったと思われる。

 十一月には、東京での日本観光連盟創立総会にも参加、また、東京支部を東京物産あっ旋所に設置することも決めている。十二月の理事会では、大阪商船主催沖縄観光団歓迎の件、観光コース視察の件等も審議しており、さらに、案内ガールの養成、料亭給仕の作法訓練、土産品の改善等を順次行うことも決めている。この時期、沖縄日報社は「沖縄八勝」を公募している。

 当時は首里城の大修理、守礼門の国宝指定も終えており、観光構想も各地から出てきた。旧首里市は首里城を中心とする観光都市構想。北部の嘉津宇岳の麓ではゴルフ場を作る案、万座毛一帯では記念運動場を作り、恩納岳に登山道路。那覇市では波上宮沖の海底透視遊覧船計画や、「沖縄中央ホテル」構想も出てきた。黎明期の沖縄観光はこうしてスタートした。

 (写真は戦前の沖縄県商工課発行の「沖縄案内」。発行年不詳)

2、観光パッケージ・ツアーの始まり

 戦前は現在と違って、船の旅が主流であった。「沖縄はただ一つ残されたわが国の『観光処女地』であります」。これは、当時沖縄路線を独占していた大阪商船のキャッチフレーズである。

 昭和十二年一月には大阪商船の波上丸(写真)、三月には浮島丸が、大阪〜那覇線に就航した。両船は船型、機関、荷客設備とも当時としては近代装備を施したものだった。両船の配船を契機に、大阪商船では「沖縄視察団募集」を本格的に募集するようになった。パッケージ・ツアーの始まりである。

 第一回の波上丸に続いて、第二回の沖縄視察団が、浮島丸処女航海を記念して募集された。その時の広報が次のようになされている。

 「三月二十五日、午前十時神戸浮島丸乗船、二十七日、那覇入港と共に自動車で波上宮及び護国寺に参拝、引き返して糸満町でクリ船競漕を見物し、夜は辻にて宴会、二十八日、自動車で工業指導所を視察後、識名園を見物し、歴代国王の居城たる首里城に至り往古を回顧してから郷土博物館見学後、一同記念撮影、午後は円覚寺、泡盛工場、尚公爵邸、農園視察、旅館にて夕食後古典劇見物、二十九日自動車で首里から万座毛の絶景を見て嘉手納製糖工場視察し、昼食後天久の闘牛(交渉中)見物し、後は自由行動、三十日午前十時那覇発四月一日神戸着。募集人員三十名。一等九十円、二等七十円」(宿泊日数や訪問先等は以後のツアーもほぼ同じである)

 昭和十二年五月号「海」(大阪商船PR紙)によると、第三回沖縄視察団には二十六人が参加し、帰路の船上で「沖縄を語る座談会」が行われている。この中には、北海道からの参加者もおり、この旅行が素晴らしかったことや、「団体旅行はこれまで軽蔑していたが、今回の旅行で私の認識不足だったことがわかった」との声なども出ている。また、「キャビンの設備は、欧米航路の船に劣らぬ気持ちのよい船である」ともある。

 昭和十二年には五回募集したところ、申し込みが殺到し毎回満員だった。昭和十五年の第二十三回までの募集の案内までは記録があるが、その後も実施されたのかは不明。

 当時、沖縄を訪問する観光客といえば、経済的にも時間的にも余裕のあるごく一部の人に限られており、本格的になったのは戦後のことである。なお、当時の沖縄には、専門の案内役はおらず、大阪商船沖縄支店に勤めていた儀間光裕が、「観光ガイド第一号」を務めたと言われている。

3、「方言論争」と沖縄観光

 昭和十五年、民芸運動の指導者、柳宗悦の一行二十六名が沖縄にやってきた。柳にとっては三回目の来沖だった。この時には、柳自身が沖縄のことを観光の視点から全国に紹介したいという考えもあって、観光関係者が同行していた。

 一月七日、沖縄観光協会と郷土協会主催の「沖縄観光と文化を語る」座談会が開かれた。その際の座談会の趣旨は、本来は観光の話しが中心になるはずであった。しかし当時は、県当局が標準語の普及運動をしていたこともあり、方言の是非をめぐる論争に論点がすり変わってしまった。(写真:昭和15年1月8日の琉球新報)

 その時の観光関係者とは、水沢澄夫(国際観光局)、井上昇三(ジャパン・ツーリスト・ビューロー、現在のJTB)である。国際観光局は外国人観光客を誘致することを目的として昭和五年に鉄道省の外局として設置された組織である。

 水澤澄夫は次のように述べている。「一、開発していただきたいもの、二、保存してもらいたいもの、三、禁止してほしいものに分け、これら三者について、すなわち、旅館、道路、下水の問題、標準語の問題、勝地において風趣を損ずる立て札の問題などについて語り、結論として、沖縄は観光地として資源の上から十分発展の可能性がある。現下の世界情勢において急に国際観光地として立つわけには行くまいが、国際観光事業は「見えざる輸出」として貿易外収入の道としておろそかに出来ぬ事業であるから、ご考慮願いたい」

 井上は、沖縄は観光地としてまだ十分に紹介されていないと述べ、そして、「一言したい事は、沖縄を観光的に発展させて一体どうするのか、という質問が出るかも知れないので、敢えて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云いたい。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落とさせて、県として裕福になれば之が県民の幸福につながる」と主張している。(帰沖後、『月刊民芸』に水澤澄夫らは「沖縄の風物と観光」「観光地としての沖縄」を記述しているが、これらのレポートは、今読んでも新鮮さがある)

 二年後の昭和十七年には、宮里定三によって本格的な「沖縄ホテル」(部屋数三十六)がオープンしたが、すでに太平洋戦争に入っており、観光振興に賭けた関係者らの夢は戦後に開花することになった。

 戦前の沖縄観光については、一九六四年に発刊された『沖縄観光十周年史』にその概略が紹介されているが、本格的な研究はいまだなされていない。今後の沖縄観光を深化させるためにも、戦前の沖縄観光に関する調査研究は重要であると思っている。

(みやざと・かずお 沖縄職業能力開発大学校ホテルビジネス科教授)


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