琉球観光の歴史とその課題

学芸総合誌・季刊『環』別冊E「琉球文化圏とは何か」(03年6月、藤原書店)より一部加筆して転載(「観光とけいざい」第639号、03年8月1日。WEB版10月19日)

沖縄観光速報社・渡久地 明

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沖縄の観光産業はどのようにしておこったのか

 観光産業は「いままで行ったことがないところに行ってみたい」「海辺のリゾートで心身をリフレッシュしたい」という人間の本質的な欲求を満足させる産業であり、今後も成長し続ける産業分野である。衣・食・住・旅行といわれ、戦争でも起こらない限り、旅行は現代人にとってなくてはならない活動であり、生活の一部になっている。

 沖縄の観光産業は一九七二年の復帰から始まり、現在まで順調に成長してきた。この傾向は今後も続くことが予想され、適切な運営が行われれば、筆者の計算では二〇一七年には沖縄を訪れる年間の観光客数は現在の約五〇〇万人から、一〇〇〇万人まで拡大する(グラフ参照)。日本の旅行・観光産業はもちろん、この間、世界の観光産業も大きく成長していくことをWTO(世界観光機関)なども予想している。WTOは中長期的には、国際観光は二〇二〇年まで年四・一%で成長しつづけると予測。一九九五年から二〇二〇年までの二五年間に、国際観光客到着数が三倍になると予想している。とくにアジアの成長率は世界の平均を上回り、七%台を見込んでいる。

 基本的に観光産業は世の中が豊かになればなるほど成長する産業であるといえよう。景気の冷え込みによる一時的な停滞はこれまでにもあったし、特定の観光地が衰退していくこともわれわれは見てきた。しかし、全体としては常に拡大する産業である。

 ただし時代によって観光産業の見た目は大きく変化してきた。筆者は沖縄の観光産業は一九七二年から始まったといったが、別の見方をすれば、終戦直後に始まったといえるし、二〇〇三年のいま、まだ観光は産業になっていないとする人もいる。

 初期の観光産業の本質をよく示す実例として、米軍基地と観光産業が結びつくというからくりがある。米軍の沖縄占領後、多数の米軍人が沖縄に駐留した。現在の軍人とその家族は四七、〇〇〇人といわれるが、一九四五年頃にはもっと多くいたであろう。軍隊の沖縄駐留が沖縄経済にどのような影響を与えたかを考える。軍隊の駐留とは何だろう。彼らは沖縄で戦争をしているわけでもなく、何かを生産してもいないが、全員が沖縄県内で生活をするのであり、消費の面で沖縄経済に大きく影響する。このため沖縄県民が豊かになろうとしたら、軍隊に財やサービスを提供してその対価を得るというメカニズムが生まれる。生産体制が整わない沖縄で工業製品の出荷が期待できない状態であれば、残るのはサービス産業である。そこで米軍相手のサービス産業が隆盛となり、これは軍需産業というより、現代でいう観光産業の始まりであるといえよう。

 地域で何かを生産するわけではない軍人が多数いて、この人達は給料をもらう。それを地域に最大限に移転させる産業がおこったのである。特に農業、工業生産が少ない島換地域でその傾向が強まる。世界的にはハワイの例がある。

 このような戦後のいきさつもあり、沖縄では旅行業や航空産業、ホテル、土産品の製造などに日本の他の地域とは異なる性質がある。

 ホテルは戦前は旅館であり、当時も有力旅館は沖縄の政治家が会合を持ったり、日本軍の幹部も使った、県外からは学者や文化人も訪れ旅館を活用した。戦後は米軍人が中心となり、旅館形式からベッドのあるホテルが当たり前になった。現在でも沖縄には旅館よりもホテルが多い。

 ホテルは琉球東急ホテルが有名であった。赤瓦屋根の建物はその後、改築されてコンクリートのビルになったが、毎晩ゴールデンホールで演奏されるジャズ音楽にアメリカ人も沖縄の人も熱狂した。その後、当時アメリカで流行っていたコンベンションビジネスを取り入れようと、大がかりなコンベンションが開催できる施設を備えたパシフィックホテル沖縄ができる。

 旅行会社もアメリカの文化を受け継いだ。日本の海外旅行は一九六四年の東京オリンピックを契機に自由化されたが、沖縄県民はその前から外国に出かけていた。独自のパスポートがあり、主に日本やアメリカに出かけるのにこのパスポートを使った。米国は沖縄の青年を大量に渡米させて、教育を行なったり、産業を視察させて産業を起こさせようとしていた。

 この中に、沖縄ツーリストを創った東良恒氏(故人)、パシフィックホテル沖縄を創った国吉真市氏(故人)らがいる。

 沖縄の旅行社は海外旅行を多数企画、催行して県民に海外旅行の楽しさを教えたと言える。日本の海外旅行解禁の際には国内の大手旅行社が社員を派遣して、沖縄の旅行社から海外旅行のやり方を研修させている。パスポートの取り方、飛行機のチャーターの仕方、海外の歩き方…、沖縄の旅行社の方が当時は進んだノウハウを持っていたのだ。

 航空会社は復帰前に外資導入によって設立された。法律の問題があって、復帰前、沖縄では航空会社が県内資本では設立できなかった。航空会社をつくりたいと米国に要求し、外資を導入するなら設立OKだという政策を引き出して、パートナーを公募したところ、日本、ハワイなどの航空会社が手を挙げ、結局、日本航空との合弁で南西航空という沖縄県内を運航する会社ができた。現在は日本トランスオーシャン航空と社名は変更になり、不振の航空産菜界にあってもJALグループの一員として好成績をあげている。

 土産品として急成長した品目に琉球ガラスがある。これは戦前から細々と加工されていたものが、アメリカ文化の流入で大量の廃ガラスが出てきたのを原料にして、コップや花瓶などに加工しそれをアメリカ人が面白がって売れ行きに弾みがついた。最近の琉球ガラスはさまざまな技法を取り入れて、芸術性も高まっている。

 復帰後は米軍向けのサービス産業が衰退して行くが、それに取って代わるように現代使われているような意味の観光産業が勃興していくのである。人材は容易に確保できたはずである。米軍向けだったレストランやショッピングセンターのお客はいつの間にか観光客に取って代わり、施設はそのまま活用された。

 復帰後、日本の旅行業界から沖縄が注目されるようになり、実際に観光客が訪れるようになると、これまでのホテルでは足りず、那覇市内や沖縄本島西海崖、宮古・八重山など隅々にホテルができ、本格的な観光産業がおこる。米軍の駐留とそれに伴うアメリカ文化の流入は沖縄の観光産業を豊かな色彩に彩った。さらに、沖縄独自の民俗芸能も見直され、現代に再び花開こうとしている。沖縄の長寿食、健康食品も国際的な注目を集めており、集客力になると同時に獲得した観光収入の県外 への流出を防ぐという役割も果たそうとしている。

復帰前後の観光産業

 終戦直後の観光産業の始まりを見たが、その後どうなったか。観光産業を表現する指標に、入域観光客数というデータがある。これは船や航空機を使って沖縄に入ってきた人数をカウントしたもので、信頼性は非常に高い。最近の入域観光客数は九割以上が航空機によるもので、このうち県内に住居があるものを県民として除いた来訪客を入域観光客という。従って、観光目的の入城客、ビジネスや公務での入域客もすべて観光客と呼んでいる。

 一九七二年の入域観光客数はおよそ四四万人であった。アンケート調査をして来訪の目的を聞いてみると多くが墓参を目的にしていた。沖縄本島南部に摩文仁が丘という激戦地があって、その周辺に戦後慰霊碑がたてられた。有名なひめゆりの塔、最近の平和の礎がここにある。慰霊碑は各県別にもある。各県からの墓参団は各県の慰霊碑をまえにお参りした。沖縄県は六月二三日を沖縄戦終結の日として、休日にし、戦没者慰霊のイベントを毎年行い、総理大臣が出席することもある。

 墓参とはいえ復帰前の沖縄にはそう簡単に旅行できなかった。パスポートが必要であり、宿泊施設も数えるほどしかなかったからだ。もっぱら船での行き来となり、東京から四〇時間もかかるという時代である。

 日本航空が運航した戦後初の国際線は一九五四年二月のサンフランシスコ線と沖縄線であった。沖縄線の機材はDC6B、座席数はわずか三六〜五八席(国際線仕様)であった。運賃そのものは現在とあまり変わらないというが、国民の所得の方が少ないので、飛行機に乗って来訪する日本人の多くはビジネスマンであった。

 この間、国際的には観光ビッグバンと呼ばれる革命が起こっている。一九七〇年のジャンボジェット機の初就航である。それまでの航空機がせいぜい二〇〇人程度しか運べなかったのに対し、ジャンボジェット機は三五〇人〜五〇〇人をのせることが出来た。ジャンボジェットの出現は世界の航空産業を一変させ、一挙に航空座席の供給を拡大、パック旅行という商品が生まれ旅行需要も拡大することになる。

 日本の航空会社は当時スカイメイトという学生向けの割引運賃を設定し、学生証を見せれば正規運賃の半額でチケットを切った。まだ、航空機が一般に浸透していない頃で、学生を優遇しておくと、社会人になれば抵抗なく飛行機に乗るお客になるとの戦略である。ジャンボジェットは国内の航空会社が競って導入することになるが、当時ジャンボが発着できる滑走路の長い空港は沖縄などわずかしかなく、国内でジャンボがこれほど多く就航している空港はなかった。それでも、実際に乗ってみると、ガラリとして乗客は少なく、窓際に一人ずつ席を取っていたほどである。

 同時にその空席を埋めるために、航空機を使ったパック旅行が成立した。旅行会社が団員を募集し、団体を組んで費用を安くする新しい旅行形態である。人気が集まった。そこにタイミング良く日本復帰というかたちでデビューしたのが沖縄である。航空会社のプロモーション担当者は沖縄の海を見て、すばらしい観光地ができるに違いないと確信した。政府は沖縄の日本復帰を記念して一九七五年に沖縄国際海洋博覧会を実施する。県内は観光特需が来る、とホテル建設ラッシュとなった。海洋博に合わせて建設されたホテルには、パシフィックホテル沖縄、沖縄ハーバービューホテル、沖縄都ホテル、ホテル日航那覇グランドキャッスル、ムーンビーチホテルなどがある。これらホテルは現在まで沖縄観光をリードする有力ホテルであると同時に、新しくできるホテルの手本となり、その後、次々と新たなホテルが建設された。とくにムーンビーチホテルは国内初の海辺の欧米型のリゾートホテルとして歴史に残るだろう。

 海洋博のメイン会場となる本部町と結ぶ高速道路、一般国道が整備され、会場そのものにも世界中から展示館が建設された。テーマは「海、その望ましい未来」である。未来の海の都市の象徴として一辺一〇〇メートルの正方形の海に浮かぶ巨大構造物アクアポリスが出展された。六ヶ月間の会期中に一〇〇万人以上が訪れ、この年の観光客数は一五六万人となる。

海洋博後の落ち込み

 海洋博で幕を開けた大量輸送時代の沖縄観光であるが、海洋博終了とともに客足はばったり途絶える、七六年の観光客数は八三万人と半減。倒産するホテルも出た。生き残ったホテルも状況は厳しかった。ある大手ホテルは従業員がやることがないので毎日階段の手すりを磨いた。この状態は半年続いたという。

 県内の観光協会など関連の団体と沖縄県は観光キャラバン隊というセールスチームを編成して日本各地で沖縄旅行をPRした。具体的には大都市圏を中心に旅行会社・航空会社を訪問し、沖縄のセールスを行ったのである。また、人通りの多いところで沖縄旅行のチラシや「星の砂」が入った小さなガラス瓶を配った。沖縄観光の夕べと称して琉球芸能や沖縄のロック音楽を地域の市民会館などで披露した。デパートでの沖縄の物産展も沖縄のPRに大きく貢献した。

 打開策は航空会社がリードした。国内で初めてのキャンペーンを沖縄に導入したのである。水着の女性がTVCMに出てきたり、ポスターになって沖縄の夏をアピールした。キャンペーンによる需要喚起策である。また、航空会社は各種の団体割引運賃を設定して、旅行商品をつくりやすくした。加えて、当時は化粧品のTVCMなどが美しい海を背景にした映像を多用したことから、青い海へのあこがれは高まった。

 これらのキャンペーンは大成功であった。充分な供給体制が整った沖縄の宿泊業界と充分な座席のある航空会社、旅行会社が販売に力を入れると沖縄商品は飛ぶように売れた。旅行の内容も墓参から海を楽しむパターンに変化し、客層も若い女性、新婚客へと移り変わる。ホテル不足となり、続々ホテルが建設され、海洋博後の第二のホテル建設ラッシュとなった。

 ホテル建設で注目されるのはムーンビーチホテル建設後、長らくリゾートホテルの行方が吟味されていたが、全日空が万座ビーチホテルを建設して新たな海浜リゾートの方向性を示し、その後、続々と海浜リゾートが建設されたことだ。これらのリゾートホテルの充実がその後の二〇〇〇年沖縄サミットの開催につながる。受入施設が十分整っているという評価になった。

リカバリーキャンペーン

 二〇〇一年九月一一日、ニューヨークのツインタワービルに民間航空機が衝突、その直後、米国防総省にも民間航空機が突っ込んだ。米国同時多発テロの発生である。

 筆者はこの影響が沖縄に直接出ると直観した。一九九一年の湾岸戦争で沖縄観光は影響を受けたことを知っていたからだ。公式には湾岸戦争があっても沖縄への観光客数は前年実績を上回っており、影響は受けなかったということになっている。

 しかし、湾岸戦争では世界中の有力観光地への観光客が減少するという影響が出た。九〇年の沖縄観光は絶好調で前年実績を一〇・七%も上回って二九六万人を達成していた。九一年も同じような傾向が続くものと見られたので「今年の沖縄観光は沖縄県が三二〇万人を目標としているのに対し、本紙(筆者がつくっている「観光とけいざい」という新聞)は三二五万人を予想」したくらいである。ところが、結果は前年比わずか一・九%増の三〇一万人に終わり、湾岸戦争の影響をまともに受けたという経験が鮮明に残っていたのである。

 同時多発テロの影響は避けられず、「キャンセルが出ている」という記事を最初に書いたのは筆者である。県内数件のホテルに問合わせると、「団体が解けた」という証言をえた。また沖縄観光速報社にも学生と思われる匿名の電話で「沖縄には行きません」という非常に珍しい反応があったことを重視した。その後、日刊紙も同じ事実を報道し始めた。それでも九月の観光客数は前年実績をやや上回る。修学旅行シーズンとなった一〇月以降、キャンセルの影響は甚大で一〇日ごとの航空輸送実績統計で前年比最大四割減という記録も出た。

 このような影響が出てくると、他の力に頼っている観光産業は寄って立つ基盤が脆弱であり、他の産業にシフトすべきという指摘が必ず出てくる。しかし、この時は影響が大きすぎた。観光客の減少と共に農水産物が売れなくなったとして、第一次産業の従業者からも観光産業を立て直すべきだという声になった。また、観光業界とは無縁と思われた産業にもテロ後の観光客の落ち込みが影響したため、県内の幅広い業種から県内ホテルを応援しようと「県民一人一泊運動」などが湧き起こった。沖縄の観光収入は年間四〇〇〇億円を超えており、域内GDPの一〇%以上を占めるまでに成長していたのである。

 同時に国内の大手旅行社・航空会社を中心に「沖縄の落ち込みは、われわれ自身の問題」としてリカバリーキャンペーンが行われた。旅行社・航空会社の売上のかなりの部分を沖縄観光が担っており、沖縄が回復しなければ自社の存在の問題に関わるのである。航空会社は東京=沖縄片道九〇〇〇円という破格の運賃を旅行会社に卸した。旅行社は格安の運賃と格安の客室を組み合わせて、市場に投入した。

 全国各地から沖縄を応援しようというツアーが組まれ、沖縄側もこれによって何とか一息つくことができた。

 政府は沖縄振興開発金融公庫を通じて超低金利の資金の融資を実行したうえ、国際会議などの沖縄での積極的な開催を打ち出した。また、沖縄県や政府は特別な予算を組んで沖縄観光をキャンペーンし、テコ入れを図った。

 これらの結果、三カ月後の〇一年一二月にはほぼ前年並みの水準まで観光客数は回復、翌〇二年一月からは前年を上回る勢いに転じることとなった。

 そして、今回のイラク戦争である。〇三年三月イラク戦争が始まると確かにキャンセルは続出しているが、テロ後に比べるとキャンセル数は人数ベースで一〇%以下にとどまっており、影響は心配されたほど大きなものではなく、四月一五日現在、沖縄県などは戦争によるキャンセルは収束したとの見方である。筆者も影響はもはやこれ以上大きくならないと見ている。

 以上のことから沖縄観光の課題の一つに国際情勢に影響される体質を改善すべきだというものがある。その原因が米軍の駐留によるものであるなら、これを撤去するのが観光業界の大きな目標となる。

 このことは全く不可能なことではない。いまはブッシュ政権の国務副長官となっているアーミテージ氏は一九九九年暮れにはまだシンクタンクの代表者であり、筆者とのディスカッションで「沖縄基地には長居はしない。アジアが安定したら出ていく」と述べた。この発言を「南北朝鮮が統一されれば、米軍は沖縄からいなくなるという意味だ」と見抜いたのは軍事アナリストの神浦元彰氏であった。神浦氏自身のホームページでそのように解説しているのをずいぶん後に筆者が見つけ、電子メールを送ってからメールのやりとりが続き、神浦氏の沖縄講演につながった。イラク戦争の終結で南北朝鮮の統一、沖縄の米軍基地撤退は近づいている。

 第二に、沖縄が世界でも有数の海の魅力を備えているのであるから、これを守り育てながらもっと高度に活用すべきである。イラク戦争開始直後に筆者はモルディブを訪れたが、ここには一〇〇〇以上の島があり、そのうち七〇の島々に水上コテージがつくられ、自然のなかにとけ込む形でリゾートライフを世界中の旅客に提供していた。飛行場などない島々がそれぞれにリゾート施設になっており、マレ国際空港から島々には船か水上飛行機で行き来している。水上コテージタイプのリゾートホテルは高級な客室料金を設定しているが、いずれも予約でいっぱいだ。国内最先端の海洋リゾート地を標榜する沖縄にこのような施設が全くないのは不思議である。しかも、四日間、朝晩ボートでシュノーケルポイントに出かけて海底を見てみたが、その限りでは沖縄の海の方が生き物が多く豊かであることは間違いない。

 低価格での競争は簡単である。いまでも続々、安い施設が開業し続けている。高級なリゾートを知恵を絞って実現し、もっと付加価値を高めていかなければ、沖縄観光は安かろう、悪かろうというイメージが定着し、衰退してしまう。低価格化は沖縄旅行の大衆化策として大いにすすめてもらって結構である。しかし、同時に県民全体に、もっと大きく恩恵が及ぶよう産業政策として高付加価値化の方向も目指すべきである。この戦略がすっぽり欠けているところに沖縄観光の大きな問題があ る。

 第二の問題は具体的には、次の小さな問題を含んでいる。産業政策として二〇一七年頃に観光客一〇〇〇万人を目指すとした場合、どうしても空港の拡張が必要になり、その通過点として二〇〇八年頃には観光客数は六〇〇万人に達し、空港の制限で頭打ちになることが目に見えている。空港の早期の拡張が必要なのだが、現段階で間に合っていない。つくるという方針さえ出ていない。つまり、伸びようとする沖縄観光のポテンシャルを押さえつける結果となっている。これは国民の旅行の 自由にも制限を加える結果となり、不自由を押し付けるものである。さらに、一〇〇〇万人を想定すれば、国策としてリゾートタウンの整備、観光型の農業と製造業、失われた環境の再生、福祉、教育、スポーツ振興など観光産業以外のアプローチで沖縄全体を豊かにしていく方策が見えてくる。結果として観光産業を盛り立て、県内のビジネスチャンスを拡大して現状の失業率ワースト1、県民所得全国最下位の打開、すなわち経済的な自立にも光が見えてくるが、その取り組みがはとんどな い。緊急雇用対策や他の優遇措置などの対処療法では問題の解決は先送りされるだけで、課題そのものの解決にはならないのである。沖縄観光は戦略的にこのような課題を解決するための突破口として利用すべき時期にきている。

自立と分権が必要

 以上二つの問題は観光を通り越して、沖縄の自立に向けて本当に必要な政策とはなんだろうという第三の問題に行き着く。この問題は古くて新しい問題である。すでに一九六〇年代に政治学者の比嘉幹部氏は「沖縄と日本が対等合併すること、それが復帰である」と述べていた、その上で「施政権返還後の沖縄において地方自治を確立するためには、たんなる本土の類似県の政治・行政を模倣するのではなく、沖縄独自の特別自治体を構想する必要がある。政治においては言葉は重要な価値記 号であるから、既成概念から脱皮するためにも、この特別自治体を沖縄州とでも呼ぶのが適当であろう」(『中央公論』一九七一年一二月号)と主張していた。

 沖縄県内ではほとんど議論されなくなった考えである。しかし、最近の道州制の議論に見られるように、市町村合併の次には道州制が射程に入る。この時、沖縄は九州になるのかという議論がある。もともと琉球王国であり、九州に入るということはあり得ないだろう。

 そこに住んでいる者が精神的にも経済的にも自立するための産業政策がどうしても必要になる。二〇〇二年から始まった一〇年計画の沖縄振興計画ではそれまで力点を置いていた社会基盤整備から転じて産業政策が重視され、もっとも力を入れるべき産業の筆頭に観光産業があげられている。これが本来の効果を発揮できればなにも問題はない。しかし、他の法律でがんじがらめの日本で果たして法律の一部に「観光産業を振興する」と書いただけでそのようになるのか。前述の空港の拡張の問題はこの法律とは全く別の土俵で検討され、すでに最適な開業時期のタイミングを逃している。

 空港の問題はSACO(日米特別行動委員会)合意で返還が予定される米軍基地の問題と絡む。普天間の四五〇ヘクタールをはじめその他の軍用地が返還されると、そこには新たな供給体制が生まれる。供給の中身はリゾートかも知れないし、農業や工業製品になるだろう。それを消費するためにも空港は必要である。つまり、基地返還で新たなリゾートが建設されるとそこに人気が集まることは目に見えている。需要が増えなければ新たなリゾートは単にシェアを喰うというだけで、既存リゾートは客を奪われ、倒れる恐れがある。これは回避しなければならない。

 つまり、沖縄では何をしなければならないか、地元では分かっているのに、別の力が働いてそれができない状態にある。全国でも同じであろう。

 実例を示す。

 沖縄には自由貿易地域という特区が一〇年以上前からある、これは復帰特別措置法に基づく制度であった。復備前の沖縄にはフリーゾーンがあり、これを特別措置として法律上残したのである。筆者は自由貿易地域の創設前後をつぶさに取材していた。沖縄の制度創設の手本になったアメリカ、改革が始まったばかりの中国の経済特区に出かけ、各地のフリーゾーンの様子をレポートした。自由貿易地域は、いま、日本中で実施されようとしているさまざまな特区の先駆けである。しかし、自由貿易地域という建物と看板ができただけで、中身は「指定保税地域と見なす」という法律に基づき、日本のどこにでもある「指定保税地域」に成り下がってしまった。諸国並みの自由貿易地域の仕組みを取り入れた上で、指定保税地域と見なす方法もあったと思う。しかし、実際に企業が入居し、実務を始めたとたんに、さまざまな制限が次から次に出てきて、貿易面では全く活用されなかった。沖縄で諸国並みの自由貿易地域ができると、目の上のたんこぶと見る官僚や政治家が多く、最後には骨抜きになっていったのである。いま、自由貿易地域の建物にはレストランとIT企業が入居している。

 名護市には金融特区がこれからできることになっている。自由貿易地域の二の舞いになりはしないか。「単なる箱モノ」になるのではないか。それより、新しい沖縄振興計画そのものが「復帰に伴う後処理はこれで完了したよ」という政府のアリバイづくりに利用されているだけではないのか。そのような疑念が払拭されないのである。

 運転席にはその国の者が座るべきである。この当たり前のことが沖縄だけでなく日本の他の地域すべてで必要である。

(『環』別冊Eは県内七十人が執筆。菊大判、三九二頁、本体三千六百円。全国の書店で販売中)  


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