沖縄観光30年史■連載4
渡久地政夫(沖縄観光速報社・代表取締役)


西海岸初のビーチリゾート ホテルみゆき、浴衣論争に一石

 沖縄本島西海岸はリゾートオキナワのポイントであると見抜いたのはホテルみゆきを企画したスポーツマンの仲本盛次氏である。

 沖縄の本土復帰の前年に県内の有力財界人に呼びかけてホテルみゆきを立ち上げた。

 このホテルはあらゆる点でユニークだった。

 第一にビーチホテルだったことだ。それまではホテルといえば宿泊者が便利な大都会が中心だった。ところがみゆきは都会の那覇から遠くはなれたところに立地した。恩納村のはずれ、もうすぐ名護市という所に場所を定めた。

 沖縄駐留の米軍人軍属は沖縄の美しいビーチをことのほか愛した。週末にはビーチに繰り出して「ビーチパーティ」をやった。決まってバーベキューである。これは「需要がある」とみた実業界の人々は研究をかさねていた。だから仲本氏の企画に飛びついた。

 当時の日本国民は「レジャー」に目を向け始めていた。日本の国民体育大会(国体)へ参加した沖縄の若いスポーツマンたちは日本の高度成長を目の当たりにして「近いうちに沖縄もこうなる」と密かに思った。ボクシングの選手だった仲本氏もそうだった。

 宿泊した日本の旅館にはサービス、くつろぎ、食事、温泉、すべての良さがあった。

 しかし、沖縄は本土の旅館に勝てると踏んだ。青い海の存在である。海だけは絶対に負けない、海をどう生かすかが勝負だ。仲本の説明に沖縄の財界人も頷いた。

 こうしてホテルみゆきが誕生した。何よりの強みはホテルの前面に広がる青い海である。また真っ白い砂浜である。部屋は全てオーシャンビューで畳を取り入れた。大浴場も設置した。温泉に負けない雰囲気を大浴場に盛り込んだ。リゾートホテルで初めて舞台を備えた大宴会場を造った。当時は団体客が全盛だったので、団体客向けの料理も開発した。浴衣姿の宿泊客は舞台上で演じられる優雅な琉球の踊りや、聞き慣れない音楽に異国を感じた、琉球料理を味わって大満足のひとときを過ごした。ファイト満々の仲本氏はアイデアを連発した。だが、経営に躓き、ついにホテルを譲り渡すことになる。(その後、仲本氏はいろいろな事業に手をつけるが、不運続きである)

 そのころ那覇ではホテルが大繁盛していた。西欧のホテルでは自分の部屋を一歩出るとそこはパブリックである。浴衣は寝間着とみられ、寝間着姿でホテル内を歩く人などいない。ところが日本人の旅行客は男も女も浴衣で歩き回る。日本の旅館では浴衣が極く自然である。その習慣でホテルでも浴衣で館内を闊歩する。俄然論争が巻き起こった。「浴衣でホテル内を歩くのを禁止せよ」「いや、浴衣だと良くくつろげる。浴衣でくつろいでいるのを禁止できない」

 宿泊業のトップたちは浴衣をめぐって手探りの論争を始めた。「いっそ、日本の旅館同様に浴衣をOKしてはどうか」と主張する人や「いや、あくまでも浴衣は禁止すべきだ」と強硬に反対論を述べる人で論争はいっこうにおさまらない。和洋折衷が生んだ論争である。大胆に取り組む人もあらわれた。

 「うちは本土の温泉旅館とホテルの良さを取り入れ足して二で割り、『旅テル』(りょてる)にする」というのだ。

 「旅テル」とは聞き慣れない言葉だがが苦肉の策である。

 ホテルみゆきは宿泊客の判断に任せた。そのポイントは宴会の時には浴衣で、その他は軽装にする。

 那覇でもこの形式を採用するホテルが増えていった。ビーチバーベキューも歓迎された。涼しい海風に吹かれながらのバーベキューは新しい沖縄のリゾートの魅力を倍増した。

 「えっ、旅テル」と驚く人や「ばかばかしい」と一笑に付する人など様々であった。

 結局、日本人の海外旅行の激増と国際化が沖縄のホテルのマナーを定着させることになった。

 「旅館ではゆかた」

 「ホテルでの浴衣は不適当」

 というルールが沖縄でも確立したのである。

(「観光とけいざい」第614号02年6月15日号)  
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