沖縄観光30年史■連載19
渡久地政夫(沖縄観光速報社・代表取締役)


先輩たちの活躍ぶり

 宮里定三さんは沖縄観光協会の設立発起人の一人で沖縄観光育ての人でもある。

 沖縄観光協会は「沖縄と観光」の論議を抜きに発足した。発起人はそうそうたる人たちが顔をそろえた。

地元の有力新聞二紙(沖縄タイムスと琉球新報)も加わった。沖縄観光を育てたのである。

 宮里さんはただ一人、観光業の経験者としてみんなから親しみを込めて見られた。

 那覇市の大道に沖縄ホテルを再建したが、先頭に立ってやることをモットーとしていた。

 「観光振興のためになるのなら何でもオーケー」の主義を貫いた。

 最後まで変えなかったのは「観光は民間が主体である。官はバックアップして民間企業を育てるべきだ」と主張したことである。

 私が「観光速報」を創刊し、早速、宮里さんにお会いしてご挨拶すると「やってくれるか、がんばるんだよ」と激励して購読料を出してくださった。

 観光協会が観光コンベンションビューローに発展的解消したときに、宮里さんは「さびしいな、これで沖縄観光が発展していくといいが…」ともらし、賛美歌を歌って観光協会の解散を嘆き、コンベンションビューローの発展を祈った。

 自ら那覇市ホテル組合を組織した。

 在沖縄米人が「沖縄にはパンパン宿しかない」と発言したのに反撥し、格式のあるホテルを作って見せた。

 大道の沖縄ホテルは当時の沖縄では格式のあるホテルとして本土の有名人が利用したものである。

 本土ではその後、ホテルや旅館の火災や事故が相次いだ。多くの人命がうしなわれた。宮里さんはホテル構内に自宅を建てた。「ホテル内がいいですか」と聞くと「いざというとき、責任者がいないといけない。大事なお客さんを命がけで守るのがホテルマンの責任だ。駆けつけるまで時間がかかってはならない。私は従業員の先頭に立って、働く」そういった。

 このことを聞いて「本当の接客業の姿」を教えられたと思った。お客さま優先\これこそがどこにも負けない沖縄の「宝」である。

 沖縄には「ヌチ(命)ど宝」という有名な言葉もある。

 沖縄観光の立ち上がりの時、沖縄の観光人はこのような精神に燃えていた。しかし沖縄観光が全国的に脚光を浴びて起業人が続々やってきた時、この精神はしだいに変化してビジネス優先になっていく。その調整が難しい。(「観光とけいざい」第629号03年3月1日号)  


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