沖縄観光30年史■連載24
渡久地政夫(沖縄観光速報社・代表取締役)


最先端のホテル 見逃せない米国人の存在

 「沖縄にはなぜ大規模な旅館がないのですか」と宮里定三さんにきいたことがある。

 宮里さんは「一言で言うと沖縄にはそういう(旅館)文化がなかったんだよ。日本では長い伝統があって旅館や温泉旅館が発展したが、沖縄には温泉もなかった。だから人を泊めるという文化がなかった」

「だけど、長い旅をしたり、よそから沖縄にきた人はどうしたんでしようね、中国から沖縄にきて長期滞在した人もいるでしょうし」

「その人たちは民家にとまったんじゃないかね」

「いまでいう民宿ですね」

「そうだね、民宿の結果、日本のどこよりも外国の人と交流し、外国の事物を理解し、外国に精通した」

 「日本が長い間、鎖国したのと違う。戦後はどうですか」

「戦後はアメリカの文化がドッと入ってきた。この小さい島で東洋人と西洋人が一緒に暮らしたから沖縄県民は西洋人の生活を見てその違いに驚いた。そこで彼等の習慣を学んだ」

「その結果、日本で一番早くホテルを取り入れたのではないか。いきなりホテルになったんだ。実学だよ」

 「その功罪は」

「両方あると思う」

「両方とは」

 「まず、功の方だが、経営の上から見てホテルで大変よかった。旅館のように従業員訓練をしなくてよい。極端にいうといらっしゃいませといって部屋のカギを渡せば済む。これを日本の旅館のように従業員をしつけて苦情の出ないようにするまでには長い時間と手間、暇がかかったろう。そのかわり、ホテル独特のサービス、おもてなしを心掛ければよい」

「ホテルのサービス、おもてなしはどこで学んだのですか」

「経営者が日本の一流のホテルに泊まり、実際に体験して身につけた。また協定した旅行業の主催する海外研修に参加して実地にみた。そのほか社員を海外のホテルに二、三年研修に出してノウハウを身につけさせた。研修期間中は留守宅にも身分の保障をした。大変なコストがかかっているんだ。中にはかえってくるなり、引き抜かれて他の業界に移った者もいる」

「経費面では苦労したんですね」

 「罪の方は、ホテルは華やかで、しかも儲かるように見えるから参入する人が増えた。競争が激化し、濫立、乱売がはじまった。金融機関もどしどし融資した。将来、様々な形態のホテル(宿泊施設)が出てくると思うが、観光の背景や、沖縄での経営のあり方まで考えて進出してほしいものだ」

「表面だけ見てはいけないのですね」

「シーツのクリーニング代、トイレットペーパーの長さまで経費に入るから実に細かい。そこまで考えないとホテルの経営はできない。どんぶり勘定ではダメなんだ」

「どんぶり勘定に慣れた向きにはホテル経営は難しい」

「その通りだよ」

「そうすると、ホテルでは日本より進んでいた」

「そう言えるね。ただ日本との違いは資本力だ。日本では外貨獲得のため、金融機関もプロには有利な条件で融資した。その点、沖縄では金融面で苦労した」

 宮古から石垣まで離島の各地、沖縄本島周辺、あらゆるところで観光関連の事業が発生する。現在の観光発展の原動力となったのである。

 宿泊業界と観光の関係についてはすでに多くの研究がなされているが、沖縄ではまだ不十分だ。この点の研究が今後の大きな課題となろう。

 宮里さんから聞きたいこと、教えてもらいたいことはたくさんあった。亡くなったのは返す返すも惜しい。宮里さんの遺志はホテル組合に受け継がれている。いまでも組合の事務所にいくと真ん丸い体で「どうしているかね」「元気かね」と声を掛けてくる気がする。 (「観光とけいざい」第634号03年6月1日)  


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