「沖縄、沖縄…」
読山原学術調査の小田博士こぼれ話


三万年前の縄文人から沖縄の子供たちへの手紙

(「観光とけいざい」第674号05年3月1日。WEB公開05年4月10日)

沖縄観光速報社・渡久地 明

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 二月二十三日に開かれた読山原フィッシャー学術調査の出陣式(厚生年金休暇センター)と二日目に「らしきもの」が出た現場、三月一日の打ち上げ(沖縄レインボーホテル)で小田博士から話しを聞きました。その模様を、「三万年前の縄文人から沖縄の子供たちへの手紙」というタイトルでまとめました。三万年前からの古代史のロマンです。ぜひお読み下さい。(1面参照。本紙・渡久地明)

■読山原で出たらしきもの

 考古学の小田静夫先生が団長になって読山原フィッシャー学術調査が始まりましたが、調査二日目に土中から「らしきもの」がでてきました(写真は小田先生(左)と武村社長)。

 らしきものとともに巻き貝、宝貝の化石も出ていますが、割った跡があり、そこから爪楊枝を入れて身を食べたんだろう、という見立てです。

 また、表土に落ちていた磨製石器も見つかりました。ただし、もしこれが土中からでたら「大宴会」だったのに残念ということです。

 小田氏は石器ねつ造の「神の手」藤村一派を早くから批判し、考古学会から長く追放されていたという人で、沖縄での研究歴もあります。大病を患い、大手術をしたのですが、「沖縄が呼んでいる」という天の声を聞いたら歩けるようになり、「飛行機にも乗れたからもう何度でも来る」といってます。

 数万年前にさかのぼれば、「人は南から北に移動したのは明らか。寒いところにはもともと人はいない、これは考古学というより人間の常識だ」といってます。

 沖縄人の元をたどれば中国、周口店を出発し、インドネシア、フィリピンを北上、沖縄経由で日本に広がったというイメージのようです。日本文化の源流は沖縄にあると明快に言ってます。

 で、表土にあった石器は台湾東部で出てくる短斧と同じもの(=同じかたち、読山原の原料は名護産砂岩)で、台湾では八千年前から九千年前の遺跡からよく出てくるので、読山原の短斧も八千年から九千年前のものだろう。当然両地域で同じ文化を持つ人たちが行き来していたことを示すということです。

 調査は港川人(二万年前)がでたポイントから生活の跡(石器など)がでていないことから、港川人そのものに、いまいち確かにここに住んでいたか疑問符が付いており(たまたま流れ着いた可能性もある)、同時代の石器を見つけることによって、港川人の人権(?)を復活させようという本格調査の前段にあたるものです。

 土中からの石器らしきものは一万四千年前にさかのぼる可能性があるということですが、石器かどうかの判断が今のところ難しいそうです。

 上の話しは小田先生から発掘現場でわたしが直接聞いたもので、マスコミ各社も同様な話しを聞いていると思いますが、非常に面白いので本格調査が始まったらわたしもズーッと張り付いておこうと思ってます。

 磨製の短斧は触ってみると刃先がツルツルしていて磨いてあることが分かり、刃の部分は左右から打撃によって刃先を整えてあることが分かるという説明です。もちろんわたしもツルツルの状態を自分で触りましたが。

 で、小田先生はそれを地べたにペタリとおいて「東北の旧石器はこの状態で土の中から出て来るんだよ。石器というのは土の中でいろんな向きででてくるものなのに、東北では地面に水平に出てくるから、そんなバカなことあるかといっているわけ」と解説するような面白い人です。

 以上の話しは今日あたりまでの新聞にはまだ出ていないですね。らしきものが出たというストレート記事だけ。

■本土の石器とは違う

 学術調査の打ち上げに参加して飲みました。

 小田先生は長い総括を行い、その中で鹿の骨を加工したような遺物が沖縄で出ているのに、人為的な加工ではないという結論を考古学会が出していることに触れながら「本土で確立された石器の分類に基づいて沖縄の遺跡を調査した結果、沖縄には旧石器はないという結論になっていた可能性がある。沖縄の石器は本土とは違うと考えるべきかも知れない」

 と述べました。

 小田先生は鹿の骨の遺物を骨角器と見ていて、学界の常識を疑っています。また、山下洞人の骨と一緒に出た石を石器であると結論していて、これも考古学会の見解とは分かれています。(沖縄の先生が石器という結論を出したのに学会は認めていない)

 上の「らしきもの」も石の種類が本土では出ていないものであり、だから石器ではないという可能性もあるわけです。

 で、わたしが「先生、たとえ割れやすい石で出来た石器でも、一度使えればよい、使い捨ての感覚でナイフとして使ったものがあるんじゃないですか」というと「その通り。わざわざ原料を取りにヤンバルまで行ってたら一日かかるもんね。適当にその辺の石を割ってナイフのように使った方が楽だよね」と話が弾みましたよ。

 「沖縄では歴史年表は十二世紀頃くらいまで真っ白で、石器時代と書いてあったんです。理科の教科書にもセミやトンボが本土産の亜種と書いてあった。オレは亜種かと思ってましたよ」

 「そんなことはない、源流ですよ。沖縄の人たちが九州、四国に出ていって、関東まで来た。クマゼミなんか沖縄のものが本土に行った。猫もそう」

 「ぼくらの教育は四十年前のものですが、いまでも中学生に話しを聞いたら沖縄人は一段劣るものと思いこんでるようですよ」

 「それならわたしが沖縄の年表をつくってあげますよ」

 「子供たちにも講演して下さい」

 「もちろん。世界中の石器の標本をたくさん持ってますから、見て、触ってもらって、いくらでもタダで講演します」

 「ぜひ社会の先生に伝えます」

 というやり取りをしました。

 そのなかで、また、「体が動かないのに沖縄が呼んでいるという声が聞こえて体が動くようになった」という話しを繰り返しながら、

 「沖縄、沖縄、これだけじゃなくて、いろんなことがあって…、」

 と急に顔をくしゃくしゃにして涙を流し始めたのには驚きました。事情は分かりませんが、わたしももらい泣きしてしまいました。

■フィールドを提供した武村石材

 読山原は元は石灰岩の台地で、40年前から石切場として石材を出荷してきたところでした。そろそろ石材がとれなくなる頃には海沿いに広大な平地が出来て、跡利用を考えていたところでした(写真は調査の対象となる石の割れ目=フィッシャー)。

 社長の武村氏はここで40年間石を切っていて、ふと、この地の由来に思いを馳せた。大切な神の土地と助言する人もいて、水が湧く一角に拝所を造り、年2回、拝みを始めていたところでした。戦前からの石切場であること、もっと古くは海で石を切ったあとがあることなども分かっていました。自分のルーツを調べるなどしていたところ、グラハム・ハンコックを与那国海底遺跡に案内したグループから、与那国島に招待されます。

 石工の知識が欲しいという求めでした。結果、石工の棟梁が伝統的な沖縄の石の切り方を説明し、研究グループも(この中に小田先生もいるのですが)、さまざまな沖縄の石工の棟梁の知恵を吸収することになりました。

 結論として、与那国遺跡は人工物ではない、としたわけですが、このことは古代史ファンの私としては、かなりがっかりです。しかし、今後、海底から何か見つかることはあると思います。

 それでも与那国陸上からは飛行場をつくるときに遺物が出ており、小田先生はこちらの研究をしっかりやりたいとの考えがあります。

 武村石材は組合を設立して、世界遺産級の浦添ようどれの復元作業などを行っており、今後は沖縄の石の加工・建築技術を後世に伝えるための仕事がしたいと考えています。すべて石造りのリゾート開発、メモリアルパーク、石造・石器博物館などによる跡地利用を構想しているところです。  


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